拡張家族を作りたかった・・・んだよね・・・(遠い目)

今日も診察待ちの間に評価と贈与の経済学 (徳間ポケット) 内田樹 (著), 岡田斗司夫 FREEex (著) (再読)を読んでた。

最初に読んだときに感銘を受けた部分が、かなり自分の行動に影響を与えていたんだなぁと改めて思った。

(実は、初めて「内田樹」という人物を知ったのが、たまたまKindleで買ったこの本。
「なかなか面白い(興味深い)考え方するおじさんだな~」とTwitterをフォローしたり、人から勧められて著作を読み始め、どハマり。
(現時点では)内田さんのすべての意見に完全に賛同しているわけではないけど、それまでとは違うものごとの捉え方を与えられた。)

第三章 拡張型家族より

岡田 甲斐性のある人がたくさんの人を食わせるべきなんです。

内田 自分がそこそこ努力してある程度の社会的成功を収めて、そこそこ自由に使える資源が手に入ったっていうのは、もともとが自分の力じゃないわけですよ。(中略)恩には恩を以ってお返ししなければことの筋目が通らない。(中略)自分の成功は自分ひとりで成し遂げたものじゃない、自分がいま手元に持っているものは、自分の専有物じゃなくて、一時的に「託されたもの」だと考えるべきなんです。(中略)才能のある人は、すでに贈り物を受け取っているんです。才能があるという時点で、すでに負債を負っているわけですよ。反対給付の義務がある。そういう風に考えないと。

内田 (前略)小さなコミュニティをていねいに手作りしたいわけですよ。その五百人くらいの人たちで、お互いに顔の見える人間が集まって、若い人たちが活躍できるように、みんなでチャンスを提供する。お金がある人はお金を提供する。コネがある人は、コネを紹介する。知恵がある人はアイディアを出す。「これ覚えておくと食えるよ」という技術を持っている人はそれを教える。そういう相互扶助の互恵的な集団を作りたいんです。

内田 そういう相互扶助って、いまは行政が代行しているけれど、本来は個人がやるものじゃないかという気がするんですよ。(中略)基本ルールは一つで、とにかくチャンスに恵まれない人にチャンスを提供すること。若い人だけじゃなくて、幼児でも、妊婦でも、病人でも、老人でも。とりあえずいまのところ元気で、ある程度自由にいろんなことができる人たちが、そういう人たちの分まで働いて、支援する。それが社会の基本モデルだと思う。

反対給付義務は別の著作でもたびたび語られていることなので、ご興味ある方はどうぞ。

当時、収入に関しては申し分のない額をいただいていて、自分自身が核家族での孤育てで苦労したこともあり、「みんな(誰?w)を食わせて楽させるぞー。そのために昇進するぞー。地域にも貢献するぞー」とはりきって、会社では自己啓発活動に取り組んでみたり、自ら子ども会の部長に名乗りをあげたりしてみた。

けど、足元が見えてなかったんだよね。

結果はご承知の通り。体を壊して、休職しました(苦笑)

たくさん稼いで誰かを養うどころか、養われる側に回りました。えらいすんまへん。

内田 実に多くの人たちは、いまは親族共同体にうまく統合されてない。子どものときに、自己防衛する方法も知らないときに、まさに子どもをケアすべき親から深く傷つけられた人たちは、共同体への同化力が低いですよね。他者と共存する能力そのものが損なわれてしまっているから。

内田 何年か前に、ある雑誌がネットカフェ難民を特集したときにね、取材を受けたネット難民の若者が「ぼくとおなじように、ここで一ヶ月以上寝泊りしている人がほかに三十人います」って言ってるのを読んでびっくりしちゃった。だって、三十人もいるんだよ。だったら、なんであと三人に声かけて、「ねぇ、一緒に部屋借りない?」って言えないんだろう。
(中略)そうすれば(中略)はるかに安定した生活環境が、より安価に手に入るにもかかわらず、その選択肢そのものを思いつかない。これは「自立・自己決定イデオロギー」で洗脳された結果としかぼくには思えない。「他人に迷惑をかけたくない、かけられたくない、だからネットカフェでひとりで暮らす」というのが彼らにとっては「正解」なんだよね。どれほど生活上の不自由さに耐えても。「自己決定しているオレ」は正しい生き方をしていると思っているんだよ。これって、もろに一九九〇年代以降の「自己決定・自己責任」イデオロギーの帰結だよ。発想そのものを切り替えないと。

「他人に迷惑をかけちゃいけない」というのは自分もものすごく思い込んでいて、特に子供が乳児の頃(長男の育休中の産後うつ中)は、「自分の子供が周りに迷惑をかける(うるさがられる)」ことに極度に怯えていたせいで、今以上のひきこもりだった。

「正しい生き方をしている」とまでは思ってなかったけど、ものすごい窮屈で窒息しそうな息苦しさ、生きづらさを感じていた。

それは、今回の私傷病による休職中も同じ。

迷惑がられるというよりも、後ろ指を刺されるのが怖かった。

「休職してるのに、〇〇にいた」
「休職手当もらって遊んでる」
「そんな元気があるなら、働けよ」

(育休中なら、
「こんなところに、そんな小さい赤ん坊(子供)を連れてくるなんて」
「赤ん坊(子供)がうるさい」
「子供のしつけもできないバカ親」とか)

よくある「生活保護をもらって、パチンコに行ってる/タバコを吸ってる人がいる」というバッシングと同じように、そんな風に見られるんじゃないかと、休職中は外出中に会社の人や知ってる人に会うことが(子供が小さい頃は赤の他人の眼差しが)どれだけ怖かったことか。

(ちなみに自分が反対の立場なら、そんなことそれほど考えてないですからね~。ってのは、私をよく知ってる人は分かってくれてると思いますが。
なぜか、他人からは自分のことをそう思われてると、自分で勝手に思い込んでるだけです。それはたぶん、脈絡なくヒスる人が子供の頃に身近にいたので、いかに地雷を踏まないかということばかり考えていたせいです。どこにナイフ刺してもハズレの黒ひげ百発百中ゲーム・・・下手すると、ナイフ刺してないのに飛び出します)

外出中は、なるべく誰とも目を合わせず、「自分」だと気づかれないように、まるで「ここには初めて来たんです。ここに住んでる人間じゃありません」みたいなふるまいをしていた。

I’m a staranger here.
Oh, I can’t speak Japanese, sorry.

お願い、誰も私だって気づかないで。
話しかけないで。
もうこれ以上、私を責めないで。
傷つけないで。
お願い、もう悪いことしませんから。

みたいな。

だから、先日某デパートの無印良品のオープン日に声をかけていただいたのに気づかなかったようです。その節はスルーして失礼しました。
会社からメール来ないのも、こっちが息を潜めて何もアクションしないからです。ホントは自分のせいです。

自分がとんでもない社会不適合の極悪人で、息をしているだけでも責め立てられ、四六時中、針のむしろに座らされている気分。

「他者と共存する能力そのものが損なわれてしまっている」のは、他者は自分を責めるだけの存在と思い込んでいて、他者と共存していい、他者に甘えたり頼ったりしていいという社会のあり方の前提がそもそも自分の中にない。

「できる自分」の他者評価だけが自己肯定の支えだったので、会社に行かず、仕事をしてないのに休職手当もらってる自分を自分で全く受け容れられない。

アドラー心理学でいうところの「自己受容」(できない自分をも受け入れること)によって、「仕事ができなくなって、稼げない自分」を肯定的にあきらめるということができず、また「バリバリ仕事をして、他人から評価される」ことを求めて、リハビリ勤務を始めてみて、また挫折・・・。

進歩なーーーーし!!!!

最初の「みんな(誰?w)を食わせて楽させるぞー。そのために昇進するぞー。地域にも貢献するぞー」もハッキリ言って、他人からの評価軸でしか物事を見れてなかったんだよね。「昇進」なんて、完全に他人評価軸だし。

もうこうなったら仕方ないので、申し訳ないんですが・・・(と感じる時点で、まだイケてないんだけどさ)
どっぷりダメ人間に浸ります。
甘えます。
ゲスになります。
おーかーし、たーべーたーい~~~~~!(ホントは甘いものはいらないんで例えば・・・です)
おーなーか、へった~~~~~!(わりと切実です)
ひーとーりーじゃ、さーみーしーい~~~~~!(これもわりと・・・(ry)

他者に頼っていいんだ、甘えていいんだって自分自身が思ってないのに、「どーんと頼れ。甘えていいぞ~」って、懐広く、誰かを養えるわけないじゃんね。どっかで「オマエもいつもいつも甘えてねーで、ちったぁ働けよ(-"-)」って化けの皮が剥がれる。ていうか、とっくに剥がれまくってる。

拡張家族構想を練る前に、出直してきます。スタタタタタッ(((((((((((_´Д`) アイーン

スポンサーリンク
レクタングル(大)